「生きる」「死ぬ」
という言葉について
私たちは知っているかのように
口にするけど、
確かにわたしたちは生きている
だけど、死んだことはない。
客観的に、死んだかのように見える人たちを見てきたかもしれない。
それは、体が動かなくなった物理的な体を見て
「死んだ」と理解している。
そう、私たちは死んだことはないけど
あの人の体は動かなくなったから、きっと死んだんだ、そしてわたしもいつかは死ぬんだ、と思っている。
確かに、人はいつか物理的な死体となるのだろうけど
よく考えて見たほうが良い。
物理的に動かなくなったこととは、
客観的に物理的にその体が動かなくなってしまったということしか言えないのではないか?
何が言いたいのかというと、
物理的に体が動かなくなることは
目に見えない「死」の根拠となるのだろうか。
例えば「美しい」だとか「醜い」だとか「嬉しい」とか
そういった言葉も同じような本質をもっている。
どういうことかというと、全て「”物理的には”ない」ということだ。
「美しい」
は物理的にさわれるのか?
「醜い」
は物理的にさわれるのか?
「嬉しい」
というその私たちが感じている何かは、
すべてさわれない。
さわれないということは物理的なものではない。
「死」だって同じだ。
さわれないのだ。
「死体」はさわれるかもしれないが
「死」はさわれない。
さわれない目に見えない何かを決めるのに
物理的な何かを根拠に置くことは
正しいだろうか?
あとは、何かを、結論づけて語るのに
経験則は有効だとは思う。
しかし、誰一人この地球上に
死んだことのある人は生きていない。
誰も「死」について経験則を語れる人はいない。
だから、「死」について経験したことがあるように巧みに語る人がいたとしたら、それは、ただの妄想で真実ではない。
じゃあ
「生」とは、「死」とは、
一体なんなのだろう。
昔からそんなことを
ずーっとずっと考えている。
一体
「生」とはなんなのか
「死」とはなんなのか。
わたしは、哲学に興味があるけど、
哲学を体系的に学んできていない。
ていうか、哲学とは問い続けることに主眼を置いているような気がしており、
別に勉強をしなくたって、
哲学することはできる。
今のわたしみたいに。
だけど、紀元前の先人たちが考え終わったことを馬鹿みたいに考えてるフシは大いにある気がしていて
その点を指摘してくださる
哲学オタクみたいな人に出会いたいというよこしまな気持ちもありこういう記事を書いている…。
たくさん考えを深めたい。
ぜひその類の方はコメントもしくはメールをください。
ついでに下の自問自答ブログランキングをクリックしてくださったら嬉しいです。
0 返信

返信を残す

Want to join the discussion?
Feel free to contribute!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください